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先帝祭は毎年5月のゴールデンウィークである2日から4日にかけて山
口県下関市にある赤間神宮で行われる神事のことです。「しものせき
海峡まつり」の催しの中の1つとして行われます。
先帝祭は皇室祭祀令の定める大祭の1つです。
1.先帝祭の由来
先帝祭の「先帝」とは平家物語の「壇ノ浦の戦い」において若干8歳で
崩御された安徳天皇を指しています。
1186年、文治2年、源氏と平家の戦いで平家側が不利になった際、祖
母である二位の尼(平時子)に抱きかかえられわずか8歳だった安徳天
皇は「波の下には極楽浄土と呼ばれる素晴らしい都がございますよ」
と入水しました。
この幼くして壮絶な死を遂げた天皇を祀るのが先帝祭の趣旨です。
引用元:しものせき物語
2.先帝祭の舞台・赤間神宮の歴史
赤間神宮はもともと、阿弥陀寺というお寺でした。
しかし、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって神社になりました。
赤い櫓と緑の屋根が印象的な建物です。
安徳天皇を祀っていて、江戸時代までは「安徳天皇御影堂」とも呼ば
れていました。
この赤間神宮は小泉八雲の小説、「耳なし芳一」の舞台でもあります。
3.先帝祭のクライマックスは上臈参拝
先帝祭で1番盛り上がるのは上臈参拝(じょうろうさんぱい)です。
上臈とは太夫や花魁(おいらん)など身分が高い遊女という意味です。
先帝祭における上臈参拝では「身分の高い遊女が安徳天皇の御廟所
(ごびょうしょ)に参拝」をします。
なぜ、遊女が安徳天皇を参拝するのかというと、壇之浦の戦いでは平
家側は安徳天皇以外にもたくさんの女官が入水しました。
何人かは助け出されたりして生き永らえますが、宮仕えの彼女たちは
生きるすべがありません。
そこで元官女たちは下関で遊女として働くことになります。その元官
女、今は遊女になった彼女たちは安徳天皇の命日に参拝をし、冥福を
祈りました。
これが先帝祭の原型です。今のスタイルになったのは江戸時代だと言
われています。
上臈参拝は稚児・警護(けいご)・官女・禿(かむろ)・上臈が列を
作り参道を練り歩きます。
その姿は非常に豪華絢爛です。特に、赤間神社へ行くための天橋を渡
るとき、朱色の橋が上臈のきらびやかな衣装を映えさせます。
また、遊女独特の歩き方である「外八文字」も必見です。
神社と遊女という少し異色の組み合わせを楽しみましょう。
4.上臈参拝以外の見所
先帝祭では上臈参拝が一番の盛り上がりを見せますが、ほかにも平家
落人の子孫による平家一門追悼祭や平家の遺臣で漁師に身をやつして
再起を図ろうとした子孫にあたる人々で構成される漁業組合の中島組
で追悼を行ったりもしています。
5.安德天皇の悲運な一生
安德天皇は高倉天皇(父)と平清盛の娘(母・平朝子)との子として
生まれ、平清盛が外祖父にあたります。平清盛の孫になります。
平清盛の企みがでしょうか、自分の娘を天皇家に嫁がせて、二人の間
に生まれた子を一歳で天皇に即位させ絶大な権力を手にすることを考
え、可愛い孫以上に、最高権力者に押し上げてくれる政治の道具に使
ったようです。
朝廷からは「武士ごときが勝手に天皇を決めんな」とのブーイングで
多くの人を敵に回します。
平清盛は源平合戦の最中、病にて死亡後、次第に平家の力は衰えて源
氏に攻められ、平安京を逃れ都落ちし三種の神器を持ちだし屋島を拠
点とするが、義経の奇襲により屋島の戦いにも破れ西に逃げます。
最後の砦、壇ノ浦で最終決戦で敗北、祖母と入水し最後となります。
安德天皇は生を受けて死ぬまでの間、権力に翻弄され続けた生涯を送
ることなりました。幼少だから自覚すらなかったでしょう。
安德天皇
1178年 出生
1180年 高倉天皇譲位し1歳で天皇に即位
1180年 源平合戦始まる
1181年 平清盛病死
1185年 2月屋島陥落
1185年 壇ノ浦の戦い
6歳で崩御
まとめ
先帝祭は毎年5月に山口県下関で行われる行事です。平家・源氏の「壇
之浦の戦い」で幼くして入水してしまった
安徳天皇の魂を慰めることを趣旨としています。
一番の見所は上臈参拝です。平家側で生き残った官女たちが遊女とな
りながらも安徳天皇の命日参拝したのが始まりとされています。
豪華な着物で赤間神社の天橋を渡る姿はとても美しいです。
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